日記についての日記

昔、日記をつけていた。大学に入学してから10年あまり。B5のノートに毎日1ページづつ。だいたい2ヶ月でノートがいっぱいになった。そのノートはまだしまってある。読み返したことはない。

iMacを買ってからパソコンで日記をつけるようになった。それも数年分があるのだが、iMacが壊れてしまってそれっきり。データのサルベージができていない。このまま廃棄される運命だ。

で、しばらく日記からは遠ざかっていたのだが、ブログをつけるようになった。1日の量はかってのそれに及ぶはずもない。毎日も付けていない。

毎日つけることの意味や意義はたいしてなかった。我慢強く、辛抱強かっただけだ。それは実家が兼業農家をしていたことと、どこかで繋がっている。僕のなかにあるものなんて、その程度。生まれてから死ぬ迄のささやかな過程でしかないのさ。ゆっくりと死につつあるこの肉体の記憶を刻んでいるだけなのさ。

今日も地下鉄に乗ろうとして財布がないことに気がついた。どうして持っていないのか、理由はすぐにわかった。落としたのではなく、家に忘れただけだ。仕事の約束をずらしてもらい、家に帰って財布をとってきた。今日の京都は30度に達したのでひどく汗をかいた。シャワーを浴びたい。ビールを飲んで平日の午後に微睡みたい。どちらもかなわない。奴隷のように働く。思考を停止して単純な作業に没頭する。ストレスなんか僕には関係ないと思っていたのに、ささやかな誇りを簡単に傷つけられて、落ち込んでします。暫くの、くよくよする。

電車で移動中に『ウェブ人間論梅田望夫平野啓一郎』(新潮新書)を読了する。人間はおしなべて云えばよりよい世界を作っていくために知恵を出す。悪意と善意が拮抗したとしても、世の中の便利と効率を天秤にかけて、善意が支配する。100年前の人間と比べて、現代に生きる僕たちはよりよい世界を手に入れたと自身を持って主張することは可能なのだろうか?